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ワインを作る技術を憶えても
ヨーロッパの土と空を
日本に持ち帰ることはできない
さて、いよいよ研究所との契約が終わりに近づき、日本に帰る段階になってフランスの研究所とドイツの研究所に挨拶にいったところ、両所長が同じことをいったそうである。その当時日本のエレクトロニクスはヨーロッパを席捲していたにもかかわらず、三田村氏にはぶどうのことをすべてを教えてくれたことについて、三田村氏は後ろめたくまた不思議に思っていた。しかし、両所長は「あなたは学んだ技術は持って帰れてもヨーロッパの“土と空”を日本に持ち帰ることはできないでしょう。」といった。それだからすべてをオープンにしてくれたのだった。
日本のぶどうの品種を換える
日本に帰国すると、三田村氏は、日本にはない種類のぶどうの苗を年間1万本通年5年間輸入させてくれという交渉を国と行った。その当時は日本には同じ種類のぶどうの木しかなく、1つがウイルスに汚染されるとすべての木が汚染されるという状況だったためだ。三田村氏は、ぶどうの苗の輸入枠を広げるかわりに三田村氏が研究したウイルスに関する情報をすべて開示するという交換条件を出したそうである。
輸入枠に関して交渉した政府の人がウィルスに係りのある柑橘類の専門家であったことが幸いし、輸入を認めて貰えた。こう考えると、日本のワインが現在あるのも三田村氏のおかげだということになる。現在、フランスとドイツのぶどうの苗は、年間20本だけ輸入できるそうである。
三田村氏とブルゴーニュの出会い
さて、三田村氏が初めてブルゴーニュに行ったのは1973年だった。同時にボルドーにも行った。しかし、三田村氏が持った印象は、ボルドーはネクタイ、つまりビジネスマンの世界で、ブルゴーニュは農家、造り手であるといういうことであった。あの有名なロマネ・コンテイでも、社長は自らぶどうを育てており、かざらず、手も汚れている。それで三田村氏は「ブルゴーニュには心がある」ということを感じたという。さらに、三田村氏は「ワインというものはある程度自然が作るものであり、人間がやれることはその人間の感性で違った形で再現するものである。」という信念をもったのだ。
しかし、その当時三田村氏はまだ、ブルゴーニュの繊細な味のことは理解できなかった。ただ「ブルゴーニュにはハートがある」ということはわかった。ワイン作りにはまだ4年間ほどの経験しかなかった三田村氏だが、いろいろな人に聞いても究極はブルゴーニュに落ち着く。三田村氏の気持ちはますますブルゴーニュワインに傾いていった。
日本ではぶどうを植え、また世界をかけめぐる
その後、日本で100何種類ものぶどうの苗を山梨、長野、岡山、千葉に植え、各地域でぶどうがどう育つのか、またワインにしたときどういう味になるのか確かめる研究を始めた。しかし、ぶどうの苗木から育て、収穫したぶどうをワインにするまでの研究は時間がかかるもので、25年というスパンで考えなければならない。一方、外国でワインを製造するという仕事にも係るようになり、アメリカ、南米、オーストラリア、中国、南アフリカ、中近東、東ヨーロッパ、ロシアをまわられたそうである。(4/5)
→つづく(次回は9/8更新予定です。)
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